第92号(2013年5月15日号)
目次
蘭(洋)学者「斎藤源蔵」について
<質問>
江戸時代末期(幕末)の蘭(洋)学者「斎藤源蔵」に関する記事はあるか。
<回答>
次の資料に「齋藤源蔵」についての記載があります。
資料1 青木大輔『大槻俊斎』大空社,1998(昭和39年刊の復刻版)
p.6 「俊斎の長崎遊学の費用については,恩師手塚良仙の他,陸中水沢出身の神崎屋源蔵の後援があった。神崎屋は斎藤氏と称し,江戸における洋薬商の鼻祖といわれた人。高野長英,小関三英,湊長安など東北出身の人々はこの人の世話になった。謂はば,当時の洋学者の庇護者であった。」
p.16「五,種痘所の設立と俊斎」の項
「(略)安政四年三月,(略)そしてその歳の八月(五月か)種痘館設立について俊斎宅に集り協議した。参加した人の中には(略)仙台水沢の斎藤源蔵などがあった。」
資料2 佐々木侑『大槻俊斎先生小伝』宮城県図書館, 1943
「五、長崎修行の俊斎」の項
「日本橋掘留町に神崎屋源蔵本名を斎藤源蔵といふ人があった。同じ仙台藩水沢町の出身で薬種屋を経営し高野長英の養父元齋(玄齋とも書く)と水沢の同郷の旧知である関係上,長英を援助し,又俊斎は長英との関係から知合になり,俊斎とも交誼が深かった。此の人は俊斎の勉学の精励に感服し,生活費の補助から学費まで援助してくれるといふ親切さで,殊に新刊の書籍の購入には奥さんの髪飾りまで用立したといふことである。」
資料3 菊田定郷『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会
pp.272-273「カンザキヤ・ゲンゾー【神崎屋源造】」の項
「薬舗。胆沢郡水沢の産。早く江戸に出でゝ新橋汐留町に薬舗を開き,蘭方家の間に知らる(略)世に称す,長英の大成は多く源造が義侠に頼れり。」
「斎藤源蔵」での記載はありませんでした。
資料4 高野長運『高野長英伝』史誌出版社,1928
pp.161-165「文政八年七月十九日 父玄齋にあてたる書簡」の中にも「神崎屋にて借金致」「此度旅用金神崎屋より一両借請」等の記述がみられます。
その他、当館未所蔵ですが,国立国会図書館雑誌記事索引でタイトル“斎藤源蔵”で検索しますと次の論文がヒットしますのでご紹介します。
資料5 深瀬泰旦「お玉ヶ池種痘所開設をめぐって-2-河路聖謨と斎藤源蔵」『日本医師学雑誌』26巻4号(1980.10), pp.420-431
<回答日>
2008/3/29
鎌田三之助に関する子ども向けの資料はあるか
<質問>
鎌田三之助に関する資料を探している。できれば子ども向けのものが欲しい。
<回答>
下記の資料を紹介します。
資料1 宮城県編『宮城県史 29 人物史』宮城県史刊行会,1986
pp.202-203に「鎌田三之助」の項目があり,顔写真が掲載されています。
資料2 宮城県史編纂委員会編『宮城県史 8 土木』宮城県史刊行会,1987
pp.126-187「品井沼の干拓」の項
資料3 社会科副読本編集委員会編『わたしたちの鹿島台町』鹿島台町教育委員会,1997
pp.103-122 当該資料は小学校の副読本で,品井沼の干拓についてコンパクトにまとまっています。
資料4『こころの絆』鹿島台町編. 鹿島台町,2006
pp.10-15鹿島台町の記念誌。鎌田三之助の項目があり,銅像の写真,当時の写真が掲載されています。
資料5 河北新報社編『宮城県百科事典』河北新報社,1982
p.212「かまださんのすけ(鎌田三之助)」の項
<回答日>
2008/9/17