第42号(2011年1月15日号)
目次
その文字,用いることあたわず
<質問>
将軍や当主などの字を名前につけてはならぬ,という趣旨の規程が仙台藩にあったはずだが,その資料を得たい。
<回答>
『仙台藩歴史用語辞典』p.18「おとめな〔御留名〕」およびp.30「きんじ〔禁字〕」の項によると,「仙台藩では「御留名(おとめな)」「御留文字(おとめもじ)」といった。」とあります。
『仙台市史 通史編5』
pp.176-179に「禁字」の項目があります。
『仙台市史 資料編3』
pp.100-135「御用書法并相定文体等」が掲載されています。
p.109には「 実名相付候儀被相禁候文字
家 宣 治 基 竹 朝 政 正 忠 綱 吉 宗 久 国 村 温 惇 年 淳 方
義広 義広と続候而実名付候儀被相禁候事
右ハ安永七年四月 御先代より被相禁候分並此度御
吟味之上此末共ニ被相禁候段被相触候事」
との記録が収録されており,名前に用いてはいけない字を規定している箇所があります。
<参考資料>
『仙台藩歴史用語辞典』(仙台郷土研究,2010.6)
『仙台市史 通史編5』(仙台市史編さん委員会,2004.3)
『仙台市史 資料編3』(仙台市史編さん委員会,1997.3)
<回答日>
2008/06/10
芭蕉が泊った封人の家について
<質問>
「封人の家」が芭蕉とは無関係であることを指摘した東北大学教授の文献があると聞いた,それを探してほしい。
<回答>
飯野哲二 『おくのほそ道の基礎研究 』改訂増補 のpp.124-130に「おくの細道地跡考(10)封人の家,最上の庄」があります。このはしがきに,以下の記述があります。
「奥羽行脚に於て芭蕉の通過せし道筋や宿泊又は 立寄せし箇所に就て,従来の誤れる説をただし,且つ疑 問や不明の儘に残され居るところを明らかにするのが此地 跡考の目的である。而して此目的達成の為に取れる方法としては,芭蕉の行脚当時即ち元禄かその前後頃の文 献や絵図を基本として,それに本文の記事と実地踏査 とを参照させて推定を下すを以ってその主眼とした。(略)」
瀬川善太郎「おくのほそ道封人の家の研究(一)」『日曜随筆』29巻5号 1984に以下の記述があります。
pp.24-27「(略)現在,封人の家と云われている同地の有路慶喜同家十五代目の家はそれではない。慶喜の家は分家で, 本家は兄であった有路弥惣治十五代目の方に芭蕉が泊ったのだとする地元の人に此の事で尋ねて行く人を今も迷わせている。(略)」
NHK仙台放送局編『宮城庶民伝』日本放送出版協会,1984のpp.221-226「八十一歳本の虫 瀬川善太郎」に記述があります。なお瀬川善太郎氏は大学教授ではありませんが,飯野哲二氏の後を継いで「封人の家の主」について研究した人です。
<回答プロセス>
飯野哲二氏について以下に記載があります。『東北大学五十年史 下』東北大学,1960【K377/ト/3/2】
pp.1345-1346に以下の記載があります。
「昭和二十四年度,二十五年度前半中に任命された供用部の選任教官は次のとおりである。(略)第三教養部 教授 国語 飯野哲二」
<参考資料>
『おくのほそ道の基礎研究』改訂増補(飯野哲二,國文社,1954)
瀬川善太郎「おくのほそ道封人の家の研究(一)」『日曜随筆』 29巻5号(日曜随筆社)1984
『東北大学五十年史』(東北大学,1960)
『宮城庶民伝』(NHK仙台放送局編,日本放送出版協会,1984)
<回答日>
2008/04/25